2004年11月26日

義務教育費国庫負担金についての私論

三位一体の改革なるものの全体像が出たそうだ。

まあ、出たというか、本当にただの概略程度のようだが、
とりあえず、こうしますよという方向付けはしているらしい。
もっとも、いろいろな方面から異論が出ているようではある。

とりわけ問題にされているのが、義務教育費国庫負担金についてで、
いやに多くの文教族議員・・・、
失礼、文教のエキスパート連中(自薦他薦問わず)が、
挙って削減に対する反対論をぶつ形になった。

この記事を書くにあたって、参考になるサイトはないかと探したところ、
義務教育費国庫負担制度理解のために」と題するサイトを見つけた。
どうも、削減反対論者によって作られているらしい。

中には、こんなページへのリンクもあったが、
所詮、目立ちたがりの大たわけの戯れ言である。
義務教育についてさしたる思慮もない人間の言うことなど、
ここでは放置して良い。

さてはて、問題のサイトでは削減による問題点を列挙している。
要するに、金がないから必要な措置が講じられない、
という一点に集約される話ばかりなのだが、
それに伴って、教育水準の低下や地域格差が生じるなどと主張している。

なるほど、一見もっともらしいことを言っているようだが、
その意見には決定的な欠落があるように思える。

そもそも「教育水準」を何によって測るかという指標がない。
単純に教育に対する予算だけで教育水準を測れるわけではないし、
バカスカ金を注ぎ込んだから水準が高いなどという
今時小学生でも言わないようなことなど、
よもやこの方々は言わないと思うが、
それでは何を以て教育水準を測るのかという具体的指標が、
いったいどこに存在するのか。

水準の具体的指標が存在しない以上、
地域格差が具体的にどういう形で生じるかという指摘も、
本来であればできないはずだ。

強いて言うならば、
教育を受ける機会の均等が図られている度合の多寡で
それを論じることは可能かもしれない。
しかしだ。
予算の多寡で教育水準が動くかの如き誤った論理よりも、
教育の指針や内容と、その運用形態による格差こそが
本来であれば問題とされるべきではないのか。

少し前に、学習指導要領が随分イージーに改変され、
それによる悪影響とされるものが問題になったことがある。
教育の水準云々というのは、本来、こういう事例でこそ
問題にされるべき性質ものであり、
それに関わる予算の多寡を論拠にすべきものではない。
予算がなければ、ないなりの教育の仕方を考えるべきであり、
それは文部科学省が地方自治体と協力しあって
考えていくべき話であろう。

お金がないから教育ができないなどというのは、
ただの屁理屈に過ぎない。
金がないなら稼ぐことを考えるべきだ。
そして、その稼いだ金を教育に注ぎ込めるよう
予算を配分していくべきだ。

教育に配分する予算の多寡で、教育水準まで変動するかの如き
現状を作り出し、それを維持してきたシステムをこそ、
洗い直し、改善していくのが本来の姿のはずだが、
曖昧模糊とした論拠による「教育水準」しか前面に押し出さない形で
このような事象を議論しようとするのは、
金欲しさに由来する、ただの怠慢に過ぎないことを
よく覚えておく必要があるように思う。
posted by KAZZ at 20:02 | 島根 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 地方自治一般
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