2006年09月29日

言葉は政治家の玩具か?

読んでみる?安倍首相・所信表明演説の「全文」(iza/産経新聞)
安倍首相:カタカナ言葉は109回 小泉首相の4倍(毎日新聞)

カタカナ語というものは、それを何でもかんでも日本語化しようとすると、
とかく無理が生じかねないほどおかしな表現になることも多いが、
逆にあまりにそれを文言の中で多用されると、
論旨を暈かされたような気分になりやすい


例えば、安倍の所信表明演説の中に再三登場する
再チャレンジ」なる言葉。
どうして「再挑戦」ではいけないのだろうか。
別に「再挑戦」で十分に意味は通じるだろうし、
言葉自体にも相応のインパクトはあるのに、
安倍はいちいち「再チャレンジ」としか言おうとしない
何の意味があってのことだろう。

また、「カントリー・アイデンティティー」なる
和製英語らしき表現も見受けられる。
わざわざ「わが国の理念、目指すべき方向、日本らしさ」などと
補足的に言い換えるぐらいなら、最初からそんな風に言えば良い
何だかそのような言葉で誤魔化されたような気分になる。

カタカナ語だけなら、まだいいように思う。
わけのわからない表現を用いられることほど、
受け手にとって辛い話もない


例えば、「筋肉質の政府」なる表現。
筋肉は肉体的鍛錬でももちろん作ることはできる。
しかし、ドーピングによる偽りの筋肉だって作ることは可能であって、
世界的な各種スポーツ大会でそれはたびたび問題になる。
安倍は政府自らの鍛錬でそれを作りたいのか、
ドーピングに頼ってそれを作りたいのか、
どうもハッキリと語っていない
ように思われる。

また、安倍が自著のタイトルにまで用いていることでも知られる
美しい国」なる表現にも不明朗さが見て取れる。

そもそも、国の形に「美醜」の概念を持ち込むこと自体、
表層的且つ一面的な見方でしか
国家の形成を考えていない
ことの証左
と言えよう。
国の在り方というのは「美醜」の概念だけで語れるものではなく
そのようなカテゴリーを越えた様々な概念が渾然一体となることで、
初めてその国の確固たるアイデンティティが成り立つもの
である。

そのように考えた場合、美しいかそうでないかは、
実際のところ、さしたる問題ではない

美しさ」も重要かもしれないが、それ以外にも多くの大事なことはあり
それらを一つ一つ丁寧に磨き上げていくことで、
より信頼される国家として邁進しなければならない


なのに、「美しい国」という如何にもな美辞麗句
国家の努力すべきベクトルを矮小化するのは、
安倍政権のやる気を感じ取るまでに至らず
何か肩すかしを喰らわされたような気分になる


何より、所信表明演説の全文を見ていて思ったのだが、
言葉の重みがとことん抜かれているような気がしてならない。
もっと言えば、言葉が安倍の玩具みたいにしか見えない
確かに政治家は言葉を弄する職業ではあるが、
果たしてそこまで軽い感覚で良いのだろうか
posted by KAZZ at 20:14 | 島根 | Comment(0) | TrackBack(0) | 国内政治(内閣・政府)
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