2005年08月01日

週刊新潮8月4日号を読んでみた

週刊新潮8月4日号に次のような表題の3頁の記事が載った。

石原知事の次は長野「田中知事」の百条委「暗闘」

先日設置された長野県議会の調査特別委員会(百条委)の
設置の経緯と、それに関する関係コメント、
そして槍玉に挙げられた田中康夫自身の反論が記されている。

記事の内容をざっと読んだ感じでは、
ああ、こんなもんかなあ」という印象である。
だいたい、まだ百条委は序盤の段階であるのだから、
そんなに面白い話がワラワラと出てくるわけもなく、
まして文体が興味本位の域を出ないのだから、
「ああ、こんなもんか」となっても仕方がない部分はある。

また、一部でこの号の新聞広告から
当該記事の見出しが削られていることに対する
強い批判も出ている
ようだが、
そもそも誌面の後方(143頁。その後には櫻井よしこと高山正之の連載)
申し訳程度にしか載っていない記事ということと、
田中康夫という人物の現状のニュースヴァリューを考える時、
仮にそれが例えば信濃毎日新聞という長野県下のローカル紙を含む
地方紙上の広告に掲載されていなかったとしても、
別に不自然だとも、情報隠蔽だとも、言論封殺だとも思わない。

それは考えすぎというものだ。
地方紙(特に信濃毎日新聞)の広告にその記事が載っていないことに
そこまで神経質にならなければならない理由がわからない。
広告はジャーナリズムとはある意味別物である
そんな広告にまでジャーナリズムの概念を持ち込むのは、
逆にジャーナリズムの驕りというものだ。

話がわき道にそれたので、元に戻ろう。

むしろ、この記事に問題があるとするならば、
この記事の何処にも主語に「長野県民」が出てこないこと、
つまり、長野県民の目線が何処にもないことではないか。

確かに、今回の百条委の設置というのは、
知事と議会の対立に起因するものであるが故に、
どうしても「田中康夫vs長野県議会」という構図で書いた方が
記事を書きやすいというところはあるだろう。

だが、田中康夫批判と言うにはあまりにも中途半端で、
その体を必ずしも為していないこの記事は、
もはや賞味期限が切れている田中康夫という存在の軽さを
改めて印象づける程度の役割しか持たない
ように思われる。

しかし、では本来主語になるべき「長野県民」というのは、
いったい何処に消えてしまったのか。
やや乱暴な論調になることをお許し願えるならば、
少なくともこの新潮の記事を読む限り、在京メディアの視点からは
知事vs議会」の最大の被害者であるのは「長野県民」だという部分が
一切欠落している
ように見えてしまう。

もっとも、それは田中康夫自身がこれまでの県政運営で招いた
きわめて必然的な事態
だとも言える。
実際、記事後段に載っている田中康夫のコメントにさえも、
そうした意識は垣間見られない

ただ「私は悪くない」式の弁明が載っているだけだ。

長野県民のことなど実はこれっぽっちも考えておらず
自分本位の言動に走るだけの田中康夫
と、それを追認する彼の後援者
その言動に右往左往させられるだけの長野県議会と県職員
そしてその両者に結果的にネグレクトされたままの長野県民
上記三者の中で最も割を食わされているのは誰かという視点がない
単なる興味本位の記事でしかない以上、もう一つ評価しきれない。

逆にこの程度の記事なら、別に広告が載っていなくても仕方がない
という言い方もできよう。

とはいえ、こういう記事が出ないよりは出た方がいいとも言えるわけで、
その辺りは、何とも評価が難しい気もする。
posted by KAZZ at 20:08 | 島根 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 田中康夫長野県政
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