2005年08月24日

しなやかという虚構

もう、あまりにも昔の話の如く思える(と言っても、まだ5年前
田中康夫が初めて長野県知事選挙に立候補した時、
彼は「しなやかな改革」なるキャッチフレーズと共に
一躍中心に躍り出て、選挙に勝利し、知事になった

以来、「しなやか」というフレーズは、
田中と田中が執り行う県政の代名詞的な扱いを受けるようになった。

そして、あの喧噪から5年の月日が流れた。
かつてあれほど喧伝されたはずの「しなやか」というフレーズは、
もはや田中後援会の名称としてたまに取り上げられる程度となり、
肝心の田中県政は「しなやか」どころか「しなびた」ものに成り果て、
良識ある長野県民からは嘆息苦笑(または嘲笑)、そして怒りと共に
見捨てられている始末である


先日来再三にわたって書いているように、
田中は新党日本なる小規模な新党の党首に担ぎ出された。
ろくな理念も大義名分も持たぬまま、
反小泉(と、強いて言えば郵政民営化反対)ぐらいしか主張がない
政党と呼ぶのも憚られるような「集団」の親玉として、
長野県知事としての職務など忘れたかの如く必死に活動している。
目立つことが好きで、自分本位であることが好きな田中にすれば、
この新党など自身の更なるステップアップのための踏み台程度としか
思っていない
のだろうし、実際、田中にとってこの新党の理念など
本当はどうでもいいこと
なのかもしれない。

だから、国民新党から議員を借り受けるような形で移籍してもらい
新党日本の党員としてそれを世に問う
ことも、何とも思わないのだろう。

もちろん、自由民主党がこれを野合などと批判する謂われはない。
彼らだって似たようなことをしているのだし、
その土壌から出て行った議員が同じことをするのを
一概に批判するような筋合いはない。
もし自由民主党がそういう批判をしたいのであれば、
とっとと公明党との連立を解消して単独政権を目指すべきだが、
まあ、それはそれとして、本筋の話ではないので置いておく。


かつて田中が掲げた「しなやか」なるフレーズの示すところと、
今回の一連の茶番劇との間には、何ら関連性がない

仮に田中がこの茶番劇を「しなやか」な政治手法と呼称するのであれば、
我々が一般的に認識する「しなやか」さの概念と、
田中が示す「しなやか」さの概念との間には、
どうやら相当に埋めがたい隔たりがあると考えていい。

ちなみに、三省堂提供「大辞林 第二版」(goo辞書)によれば、
「しなやか」には以下の意味がある。

<引用開始>

しなやか 2

(形動)[文]ナリ
(1)柔軟で、弾力に富んでいるさま。よくしなうさま。
「―な指」「―にたわむ」
(2)動作・態度に角張ったところがなく、なよやかなさま。たおやかで優美なさま。
「―な歩み」「―な物腰」
[派生] ――さ(名)


<引用ここまで>

結局のところ、田中は「しなやか」という言葉を使った虚構によって
長野県政を回してきた実績を以てすれば、
国政でもそれなりのことはやれるのではないかという
奇妙な錯覚に陥っているだけ
なのではないか。
しかし、仮にそうだとしたら、それはとんだ思い上がりであり、
同時に致命的な勘違いだと言える。
議会に一度は不信任を叩きつけられ、現在では幾つかの疑惑において
百条委員会を開かれているような身
であり、
中身のない言動に依拠したセンセーショナリズム
それら行為を広告塔と言って憚らない勘違いによって
彼は5年間にわたる知事としての職務をやってきたに過ぎず、
そこに評価されるべき要素がほとんど存在しないことを考える時、
いったい何処の誰が田中康夫の新党日本を評価するのか。
ごく普通の一般庶民たる私らであるならば、
ふざけるなの一言で片付けてしまいたくなる。
その程度の政党でしかない。

もういい加減に虚構に依存するのは止めてもらおう
作家・田中康夫としてなら、それもいいだろうが、
政治家・田中康夫としてなら、それは許されることではない

そんな自覚もなく政党の代表をやったり、長野県知事をやるのは、
有権者に対する明らかな侮辱以外の何物でもない


政策や理念以外のものでしか勝負できない新党など、
有権者は誰一人として欲していない

そのことを改めてここに記しておきたい。
posted by KAZZ at 20:37 | 島根 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 田中康夫長野県政
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